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交響曲第2番 ハ短調『小ロシア』作品17は、ピョートル・チャイコフスキーが1872年に作曲した交響曲。チャイコフスキーの作品の中では非常に陽気な楽曲の一つで、初演後ただちに成功を収めただけでなく、ミリイ・バラキレフ率いる「ロシア五人組」からも好評を勝ち得た。しかし、それから8年後にチャイコフスキーは大幅な改訂を施し、第1楽章をほぼ完全に書き換えるとともに、残る3楽章にも多くの変更を加えた。 チャイコフスキーは3つのウクライナ民謡を本作に用いて、非常な効果を挙げている。このために、当時のモスクワの著名な音楽評論家ニコライ・カシュキンから、「小ロシア」という愛称を進呈されることとなった〔Holden, Anthony, ''Tchaikovsky: A Biography'' (New York: Random House, 1995), 87.〕。 ==作曲== 1872年の6月から11月にかけて作曲されたが、ほとんどは夏の休暇に、チャイコフスキーが(カメンカこと)ウクライナのカムヤンカに妹アレクサンドラ・ダヴィドヴァを訪ねた折に書き上げられた。8月に急いでモスクワに戻ると、チャイコフスキーはモスクワ音楽院での日課(教職)や音楽評論家としての活動をこなしつつ、熱心に本作に取り組んだ。弟モデストの手紙にすぐ返信できなかったことを詫びてチャイコフスキーは、「(交響曲に)夢中になってしまったので、他のことに取り掛かれる状況ではなかったんだよ。(コンドラチェフ曰く)この『天才の仕事』は完成間近だ。(略)形式の完成度に関しては、自分の最高の作品だと思う〔チャイコフスキーから弟モデスト宛の私信、1872年11月14日 〕。」2週間後にチャイコフスキーは大急ぎで交響曲を仕上げ、さらに1週間後に完成させた。 チャイコフスキーの本作における民謡素材の利用については、伝記作家ジョン・ウォーラック(John Warrack)がまったく意外なことではないと述べている。もう一人の伝記作家アレクサンドル・ポズナンスキーによるとダヴィドフの地所は、当時すでにチャイコフスキーのお気に入りの隠れ家になっていたという〔Poznansky, Alexander, ''Tchaikovsky: The Quest for the Inner Man'' (New York, Schirmer Books, 1991), 155〕。ウォーロックは、「チャイコフスキーがカメンカや、妹に進言されてその地に構えた別邸に温もりを感じていたことは(中略)、交響曲に地元の歌を用いるという発想に姿をとった〔Warrack, John, ''Tchaikovsky'' (New York: Charles Scribner's Sons, 1973), 69〕」とも付け加えている。 チャイコフスキーはかつて冗談で、『小ロシア』の終楽章が成功したのは、自分自身の手柄ではなく「作品の真の作曲者ピョートル・ゲラシモヴィチ」のお蔭というのが真相なのだと述べたことがある。ゲラシモヴィチは、ダヴィドフの家の年長の使用人で、チャイコフスキーが本作に取り組んでいる間、作曲家に民謡『鶴』を歌って聞かせたのであった〔Zhitomirsky, Daniel, ed. Shostakovich, Dmitry, ''Russian Symphony: Thoughts About Tchaikovsky'' (New York: Philosophical Library, 1947), 94, footnote 4〕。 チャイコフスキーのお気に入りのアネクドートの一つに、『小ロシア』の草稿を失くしかけたという経験談がある。チャイコフスキーは弟モデストと旅行中に、頑固者の駅馬車仕立て人を説き伏せて、馬を馬車につながせようとした。旅行の間チャイコフスキーは、「皇帝の側近ヴォルコンスキー大公」の振りをした〔Brown, 254.〕。 チャイコフスキーはモデストと夕方までに目的地に着くと、旅行鞄が見当たらないのに気付いた。そこには制作中の交響曲も含まれていたのである。チャイコフスキーは、駅馬車仕立て人が鞄を空けて、自分の身辺を調べたのではないかと訝った。そこで旅行鞄を取りに仲裁者を遣わした。仲裁者が戻って来て言うことには、駅馬車仕立て人は「ヴォルコンスキー公」のような貴人の荷物は、本人以外の目の前で空けませんということだった。 チャイコフスキーは強い決意で戻った。旅行鞄は開かれておらず、おおかた安心した。チャイコフスキーはしばし駅馬車仕立て人と鄭重に話し込んでいて、ひょんなことから駅馬車仕立て人に名前を尋ねた。駅馬車仕立て人は答えた。「チャイコフスキーです。」チャイコフスキーは呆気に取られ、たぶんこの返事は、駅馬車仕立て人の側の抜け目のない仕返しに違いないと思い込んだ。結局チャイコフスキー姓は駅馬車仕立て人の実名だったのである。この事実を知ってからというもの、チャイコフスキーはこの話を人に聞かせては喜んでいたという。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「交響曲第2番 (チャイコフスキー)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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